106 学生さんは名前がない :2006/12/07(木) 23:03:08 ID:z64yMSe40
ある日、若者がいつものように話をしようと、村の寄り合い所に行くと、またそこに影がいた。
影は虚無の空間を睨みつけ、「若者が自分の名前を消し、他人に成り済まして村を荒らした。」と、
身に覚えの無い事を吹聴して廻っていた。どうやら、他の誰かと勘違いしているらしい。
若者は冗談じゃないと憤ったが、ひとりで土俵に上がって拳を振り回している影の様を見て、
滑稽に思うと同時に、何だか哀れになった。
しかし、影のせいで寄り合い所の空気が悪くなった事は確かである。
後日、若者は村の祈祷師の元へと相談に行った。影をどうにか出来ないかと。
祈祷師は、あやかしの姿を見る事を避けて通れる『専武羅』という祭器と『逃冥唖煩』という経典を
教えてくれたが、これらの力を使うには、影の名や、影が常時口にする言霊を知る必要があるという。
残念ながら、どちらにも心当たりが無かった。
それでは、と祈祷師は別のものを授けてくれた。それは『禍霊忍州流』という呪文だった。
この呪文を唱えると、己の心に生じた苛立ちや迷いが消え、落ち着きを取り戻せるという。
若者は、さっそく呪文を唱えながら、寄り合い所へと向かった。
そこには、若者の話を聞いてくれる好事家たちしか見当たらなかった。
若者は再び、いつもの調子で長い長い怪異の話をして聞かせた。
好事家のひとりが時折り、蠅でも振り払うかのような仕種をしたが、気にせず話し続けた。(終)